人間は何のために働くのか。生きる糧を得るために働くというだけでよいのだろうか。 一日の大半の時間を費やす労働について考えてみた。 旧約聖書ではアダムとイブが禁断の木の実を誘惑に負けて食べたがゆえにエデンの園を追放になり、 労働が課せられ、一日の安息日があたえられたとする。 ここでは必ずしも労働にプラスのイメージはなく、苦役として描かれている。 一方、宗教改革、特にカルバンの「予定説」の影響をうけたプロテスタントが近代の資本主義の礎を築いたとするマックス・ウェバーの有名な論文がある。 人が救済されるかどうかは善行の有無ではなく、すでに神よって絶対的に決まっており、 人は救済を確信するために禁欲的に働き、結果として資本が蓄積し、資本主義の土壌を築いたとするものである。
日本でも江戸時代初期の禅僧鈴木正三は職業労働は座禅を組むのと同様に修行であるとする。 京セラ、KDDI、JALの経営で成果を上げた稲盛和夫氏は「人格を練り、魂を磨くには山にこもったり、 滝に打たれたりなどの何か特別な修行が必要でしょうか。そんなことはありません。 むしろ、この俗なる世界で日々懸命に働くことが何よりも大事なのです」と主張する。
生きていく上で労働の意味を考えることは重要である。困難にあったとき、 しっかりとした労働観があれば乗り越えることができる。 そして、人生を意味あるものにすることができる。学問も同じではないか。 やっても、やっても成果が上がらず苦しむこともあるだろう。 しかしその苦しさに負けず一生懸命に取り組むことに価値があるのである。
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